働き方は、つまり生き方。小学生時代の「穴掘り」が私に教えてくれたこと。

はたらくこと
 
「今の仕事じゃなく、本当はもっと別にやりたいことがあるんです」
「好きなことを仕事にして輝きたいけど、子どももいるし時間がない。最近は自信もなくなってきちゃって…」
という現在働いているひと、または働いていたひと。
 
「やりたい仕事が見つからない。でも、とりあえず就職したほうがいいの?」
とお悩みの学生さん。
 
「お店を開くのが夢だけど…なかなか踏み出せなくて」
と二の足を踏んでいる起業希望の方。
 
自分にとってよりよい働き方を見つけたい。そんな方のために開かれるセミナーに、この度講師としてお招き頂きました。
カレンド沖縄の運営を始めてから、働き方について尋ねられたりアドバイスを求められることがとても多くなり、働き方に迷っている方が少なくないことを知りました。何かお役にたてることがあればいいなと考えていた矢先のこおと。皆さんと有意義な時間を共有できるなんて!すぐにお引き受けしました。
 
 
今の時代、働き方は千差万別。
なのに、自分の可能性を自ら狭めてはもったいないですよね。
 
 
「以前から編集やライターのお仕事をしていたんですか?」
「カメラはどこかで勉強したんですか?」
「ウェブ関係でずっとお勤めだったんですか?」
 
と訊かれることも多いのですが、答えはすべて「NO」。
 
自分で文章を書く仕事は、カレンド沖縄を立ち上げるまでしたことがありません。
カメラは、もともと娘の成長を撮るために買ったもの。カメラ教室に通ったこともありません。
ウェブの仕事も初めて。これまではずっと中国語を使う仕事に就いていました。
 
はたらくこと
 
はたらくこと
 
 
でも、あるとき急にもっと広い世界を見てみたくなりました。
さまざまな可能性を自分で手元に引き寄せたいと思ったんです。
 
今のままだとこれからの人生の大筋は大体見当がつく、そう気づいたとき、少しゾッとしました。
 
フリーランスの翻訳者として仕事を続けて地道に貯金をし、家事をこなし、子どもを育てていれば、そこそこの家を手に入れたりたまに旅行に行ったりしながら、まずまず穏やかで幸せに暮らせるだろう。
 
だけど、それは私が本当に求めている人生なのかな? ワクワクするかな? 冒険に満ちているかな?
 
それまで留学したり、本土から沖縄へ移住したり、様々な転職を重ねたりとそれなりに変化のある人生ではあったかもしれないけれど、今後の人生のアウトラインがぼんやりと見えた途端にすっかりつまらなくなってしまったのです。
 
 
そして、起業しました。
これまで従事してきた仕事とはまったく関係のない分野で。
 
どのタイミングで? どうやって?
そもそもカレンド沖縄はどのように運営されているの?
毎日どうやって時間をやりくりしているの?
などなどなどなどよく頂く質問から、カレンドの裏側やこれからに至るまで、幅広くお答えできる機会を頂きました。

ご参加頂く方にとって充実した時間にしたいので、事前に質問をお受け付けしようと思います。
コチラまでメールにてお送りください。
 
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「ノマドワーカー的な生き方をしている沖縄女性による社会貢献」セミナー
10月28日(日)
14:00~16:00
@那覇市NPO支援センター
(那覇市牧志3丁目2−10 3F会議室)
※受講料
前売り1500円(一般) 1000円(学生)
当日 2000円(一般) 1500円(学生)
※申込方法
orangegirls.oki@gmail.com (オレンジガールズ実行委員会)
お名前と参加希望セミナーをご記入の上、上記アドレスまでお送りください。
facebookページはコチラ→
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はたらくこと
 
働き方は、生き方。
1日24時間のうち睡眠8時間、仕事8時間とすると、起きている時間の半分が仕事にあてられていることに。
つまり、仕事が楽しければ人生の半分が楽しい!
逆もまた然り。
 
 
自分が就く仕事について、私が初めて考えを巡らせたのは小学生のとき。
きっかけは「穴掘り」でした。
今思い返しても、何とも言えない奇妙な色を帯びた体験だった気がします。
 
 
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小学生のころ、わたしは穴を掘った。
比喩や象徴などではない、現実的な「穴」のことだ。
 
20年以上も前のことなのに、その日のことをわたしはとても鮮明に覚えている。
 
当時わたしはさっちゃんという友だちと毎日のように一緒に遊んでいた。
しかしその日は何をして遊んだらいいのかさっぱり考えが浮かばす、彼女の家の縁側に座り、二人でぼんやりとしていた。
その時、さっちゃんがなんとなしに言った。
 
「穴、掘る?」
 
その突拍子もない響きは、子ども心にはとても魅力的に感じて、
 
「掘る、掘る!」
 
わたしは二つ返事でとびついた。
 
さっちゃんの妹のちかちゃんも一緒になって三人で、納屋からスコップやらシャベルやらをひっぱりだして準備を整えた。
さっちゃんは迷いなく、自宅の庭にある家庭菜園を穴堀りスポットと定めて言った。
 
「よし、掘ろう」。
 
菜園にはそのときなにも植えられておらずまっさらな状態だったので、私たちは躊躇なくスコップを突き刺し、3人で一つの穴を掘り出した。
 
それは始めてみると、想像以上に魅力的な遊びだった。
ただひたすらに穴を掘る。それだけの行為なのに病み付きになり、私たちは脇目もふらず一心に掘り続けた。
穴を掘る手を、スコップにかけて土を掘り返す足を止めることができない。
穴の口はどんどん広がって直径1mほどにもなり、その深さもどんどん増していった。
 
しばらくすると、さっちゃんのお母さん(わたしは「おばちゃん」と呼んでいた)が外出先から帰宅し、一体何事かと様子を見に菜園へやって来た。
おばちゃんはこれまた少し変わった人で、子どもの心に自然に寄り添える、なかなかに希有な大人だった。
今思えば、自宅の庭を意味もなく、しかし大規模に掘り返されていたら大抵の大人は慌てたり怒ったりするのではないかと思うが、おばちゃんは夢中になって穴を掘る私たちとその穴を見て目を丸くした後、高らかに笑って言った。
 
「まー、立派な穴を掘ったもんだ!どこまで掘れるかやってみたらいいよ」
 
それだけ言うと家の中に入って行き、次に出てきたときにはおやつとして手製のサンドイッチまで持って来てくれた。
 
「疲れたでしょう、一休みしなさい。サンドイッチを食べてからまた続きを掘ればいいよ。そのうち水道管に突き当たるかもしれないね、はっはっは!」
 
私たち3人はサンドイッチで空腹を満たすと、また黙々と穴を掘り続けた。
どれだけ掘っても殆ど疲れは感じなかった。
一体どこまで掘り続けるのか自分たちでも検討がつかなかったので、穴の底まで降りやすいようにと土で階段までこしらえた。
 
それから何時間経過したかはわからないが、「そろそろいいだろう」と皆が納得のいく大きさの穴が完成した。
私たち三人がすっぽりと入り、少し見上げるくらいの高さに地面が見えるという、相当な大きさになった。
 
完成した穴を見に来たおばちゃんは、私たちの頑張りを褒めたあとに記念写真まで撮ってくれた。
 
「ここまで立派な穴を掘るなんてね~。畑の土も上から下から混ぜ返してくれて、栄養が土の隅々まで行き届いたよ、ありがとう」
 
 
しかし、あんなに熱中して掘った穴なのに、完成してみるとその中で何をするでもない。
相当な大きさの穴を掘ったのだという感慨を別にすると、その穴が私たちにもたらしてくれるものは他に特になさそうだった。
私たちにとっての遊びは、穴を掘るという行為そのものであり、完成した穴には殆ど魅力を感じなかった。
 
我々三人はしばし放心状態で穴の中につったっていた。この穴をこれからどうしたものか。
そのとき、穴の入り口に立って私たちを見下ろしていたおばちゃんが、シンプルな答えをシンプルに告げた。
 
「掘った穴は埋めないと」
 
私たちは重い腰を上げ、穴の周辺にうずたかく積み上げられた土をスコップでせっせと穴に戻し始めたのだが、これが想像以上に体にこたえる重労働だった。
未知なる世界へ向かう高揚感に後押しされていた「掘る」という行動とは対極の「埋める」という作業は、疲労感しかともなわなかった。
 
10分ほどで私たちは音をあげた。
それから一旦、わたしは自宅に戻ったことを覚えている。
それが夕方だったので戻ったのか、昼食を摂りに戻ったのかは定かではないが、
とにかくいちど私たちは穴から離れ、それぞれに休息をとり、そしてまた戻ってきた。
口数も少なく、面白みの無い単純作業をこなす時間は苦痛以外のなにものでもなかった。
 
 
しっかりと穴を埋め、土をならし、私たちの穴掘りは幕を閉じた。
 
 
 
息を飲むような展開も、心温まる結末もない。
穴を掘り、その穴を埋めた。
それだけのことだ。
しかし、この穴掘りのことはそれからしばらく、ずっとわたしの心にひっかかっていた。
穴を掘っていたときの気分は、今までに味わったことのない不思議な幸福感に満ちていたからだ。
 
小学生のわたしは、短絡的な考えから
「こういうことを仕事にしたらいいかもしれないな」
と思った。
穴を掘る仕事というと、工事現場で働く人以外、わたしは今も思いつくことができない。
同級生に建設会社の社長の息子がいたので、
「彼の家で雇ってもらったらいいかもしれないな」
とまで考えた。
 
それから中学、高校と進学し、わたしは別の分野に興味を持ち、大学でも勉強を続けた。
今のところ穴を掘る仕事に就いたことはないが、20年以上経った今でもあの日の穴堀りのことを時々思い返す。

そこには、とても大事な真理のような事実が含まれている気がするからだ。

穴掘りから20数年後、34歳になった私なりの、穴掘りが告げている真理の解釈。
 
「何がきっかけとなって自分の世界が変わるかは見当がつかない」
「だから、面白そうだと思ったことは片っ端からやってみたほうがいい」
 
 
それが法に触れたり他人に迷惑をかけたりする行為でない限り、どんなことでも経験した方がいい、すべてはプラスに働く。
わたしは基本的にそう考えている。
それが例え他人からしてみたらバカみたいなことや意味のないようなことであったとしても。
むしろ、一見無意味に思える経験の中にこそ、深い意義が隠されているような気もするが、どうだろう?
見込み違いの単なる思い込みかもしれない。

 
でも遠くないいつか、またシャベルを持ち出して深い穴を掘ってみたいとこのごろ思う。
34歳のわたしは、だれと、どこに、どれくらいの穴を掘るのだろう?
そしてその穴掘りは、わたしに一体何をもたらしてくれるだろうか?
人生が大きく変わる何かかもしれないし、単なる無為な時間の経過かもしれない。
おばちゃんのように穴堀りを鼓舞してくれる大人は登場しないかもしれないし、さっちゃんやちかちゃんのように一緒に掘り進めてくれる友だちもいないかもしれない。
 
でも、いつだって「掘る側」でいたいと思う。
そばに立って眺めているだけではつまらないし、「あんなこと無意味だ」「突拍子もないなぁ」と、見物人としてごちゃごちゃ言うだけなんておもしろくない。
 
「こんな穴を掘って、一体どうするわけ? 」と誰かがたずねる。
「わかりません。でも、掘りたいんです。だって楽しいんですよ」と、34歳のわたしは答える。
 
そしてまた、今日もシャベルに足をかける。
 

文 中井雅代