「工房香月舎(かつきや)」香月礼(かつきあや)・前編「ものを創ることには何の境界もない」っていう言葉が、今も私の指針に。


 
– – – 仕事は私にとって完全な解放区。何の影響も受けず、ニュートラルな状態になれる。
 
物を創るってこと以外では、私、気も小さいし、
「あーもう、どうしよどうしよ」
ってことが多いけど、仕事だけは完全な解放区。
 
例えばファッションとかだとさ、
「あそこに遊びに行くのにこんなカッコでいいのかな?」
とかちょっとは考えるでしょ?
いちいちちょっと周りを気にしてみたりとか、
自信が持てない、みたいな、ね。
 
あ、かといって別に創るモノには自信があるからって話じゃないですよ。
それにもちろん好き勝手に作るとはいっても、
使い勝手を考えたりとか、先輩からのアドバイス的な事は真摯に受け止めますよ(笑)。

ただ創るものを人からどういう風に言われるかな?とか一向に思わないし、酷評もあんまり気にしない。
制作の方法とかも「これってアリ?」ってこともあんまり考えない。 
 
要は、制作に関してだけは完全に自分の思いつくままやれる解放区って感じ。
 
イヤな事とかあっても、滅多に手が止まらない。
そりゃね、子どもが病気とかだとシュンとなるけど、
他の場面ほどは影響受けないんですよ。
創ってる時はむしろ忘れてしまってるくらい。
ニュートラルになれるっていうか。
もうね、ちょっと「悪いな」って言うくらい
旦那と喧嘩してるくらいじゃそうそう影響受けない(笑)。
 
でも、今思えば小ちゃい時からそうだったな。
親に怒られても、もの創ってる時は忘れちゃってた。
今でも覚えてる、熱病にかかったみたな感触。
夢中になってる自分が客観的に見えるくらい没頭しちゃうっていうか。
ほら、泳いでる人がある一定のところから魚になった気分になるっていう、あの感覚に近いと思うんだけど。
ちっちゃい時に縁側で何かを作ってて、なかなかうまくいかなくて、
気がついたら日が暮れて真っ暗で、
(うまくいかないのは)手元が見えないからだって
そこで気付いたっていう記憶がある。
 

 
– – – 中学生の時にはもう「ムサビに行くか」って勝手に思ってた(笑)。
 
でも、最初っから陶芸やりたい!って決まってたわけじゃ全然なくて。
「美大に行きたい」っていう大まかなビジョンはあったんだけど。
 
私、割とストレートコースなんですよ(笑)、自分の中では。
脇道がない、っていうか、他にはなんも出来ないし(笑)。
親が言うには2~3歳の頃から、とにかく毎日工作したり絵を描いたりして過ごしてたって。
自分でも白い紙と鉛筆を持っている記憶がすごい鮮明にあって。
ほんとにそればっかりだったから、親もこういうこと以外やらないだろうって思ってたみたい。
 
あと、私が育ったのってすごいど田舎で何もない所だったから、
遊ぶのって結局自然の中だったり、自分で絵を描いたりするしかない。
デパートとかあるわけじゃないから。
だから、自分発信で遊ぶ、受け手じゃなくて。
それで毎日手を動かしてて、小学校高学年くらいからこういう創る仕事がしたいなーって思うようになってた。
 
私のことをすごく可愛がってくれるちょっとインテリの親戚のおじさんがいて、私が中学生になると
「あやちゃん、こういうの向いてるんじゃない?」
って、わざわざ田舎まで画集持って来てくれたりして。
そのおじさんの娘が武蔵野音楽大学に行ったってのもあって、
「武蔵野美大っていうのもあるんだよ~」
って教えてくれたもんだから、
中学校2〜3年生の頃にはもうムサビって言葉が自分の中に定着して(笑)
「ムサビに行くか」って勝手に(笑)。
 
だから、高校に進学したら選択授業では迷わず美術を選択しました。
 

 
– – – あの夏休みに自分の想いが固まった。
 
その頃、すごい転機があって。
高校二年の夏休みに、親にお願いして1ヶ月東京に行ったんです。
絵を勉強する通信教育の講座を受講してたんだけど、
そこの夏期講習みたいなスクーリングのお知らせが届いて。
 
四谷学院っていう絵の予備校と連携してる所だったから、
東京で実際に美大行ってる人たちに混じったらどんな感じなのかな?って。
 
「通信でずっと描いてるだけじゃ、なんかモヤ〜っとしてるから
東京のスクーリングに行ってみたいんだけど。」
って申し出たら、親も了承してくれて。

それで夏休みの間行って来たの。
全国から同じような子が何人か来てたな。
 
カリキュラムは本来は昼間だけだったんだけど、
学校のパンフ見てたら、浪人してる本当の予備校生達がやるのは夜なんだってわかって、「私も夜の授業を受けられませんか?」って事前に問い合わせてたわけ。田舎からせっかく行くのにもったいないと思って。
そしたら「特別に夜の部も受講してみて良いですよ」って。
だから、みんなが終わった後も私だけ残って夜の部も受けてた。
今思うとそれが良かったんだと思う、多分。
 
昼はさ、みんなまだ素人に毛が生えたような絵が好きな人って感じで、
描いたものを先生に褒められたり指導されたりって感じなんだけど、
夜は本来の予備校生の生徒たちが課題に取り組んでるわけでしょ。
その中にぽこーんと入らせてもらってるから刺激が全く違ってて。
 
予備校生たちがやってることが、最初は全然わかんなかったわけ。
高校でも一応美術を選択してたのに、
「何、こんなことも知らないんだ?」
って笑われながら、
「こういうことだよ」
って先生に教えてもらって何回かやると、
意外と評価が良かったりして。そうなるとやっぱり嬉しくてね。
 
あの夏休みがあったことで、自分の想いが固まったっていうか。
「絶対こういう道に進もう」って思った。
 
当時16歳でしょ。
なんでも楽しめる時期だったってのもあるんだろうけど。
それでスクーリングを終えて家に帰って、親にも
「絶対美大行くから」
って言ったんですよね。
  
 
 
– – – 子どもが申し出た事は、尊重してくれる両親だった。
 
「毎年夏休みはこのスクーリングに通うぞ」
って思ってたんだけど、やっぱお金も大変だからさ。
親が地元に良い先生いないかなって探してくれてたら、
直方(のおがた)にね、いたのよ。あんな田舎に(笑)。
 
そこの先生、
「うちの塾はね、全国からみたら針の穴ピッて開けたくらいちっちゃいんだけど・・・精鋭主義で行きます!!」
とかって言ってるすっげー面白いおじいちゃん先生で(笑)。
東京芸大出てる阿部平臣っていう先生。
行動展ですごい有名な先生でね。
でもそんなん全然関係ないような、超面白い塾で。
 
めちゃめちゃ小さい私塾なのに、
当時10名中8名くらいは毎年ムサビに合格するわけ。
よくこんな田舎から受かるよな〜っていう、不思議な塾でね。
そこに、高校3年生から通い始めた。
 
うちの両親はともに教師ってこともあったのか、
やりたいことやる人にはちゃんとサポートするっていう感じだった。
子どもが申し出た事は一応吟味して、尊重してくれる。
田舎ではあったけど、割と良い環境だったかも。
 

 
– – – 「ものを創るっていうのはね、なんの境界もない。」
 
最初は私、デザイン科にいこうと思ってたんだけど、塾の阿部先生がね、
「デザイン科はね~、香月あれだぞ、
競争率がすごい激しいとですよ。」
とか言って(笑)。福岡だからこんな喋り方でさ。
「でもデザイン科に行きたいんですよ」
って言ったら
 
「ものを創るっていうのはね、なんの境界もないから。
どこでも良いから一番競争率の低い学部に入りなさい。
入りさえすれば、あとは自分が学ぶ意識さえあれば何でも勉強できる」
 
って言われて。
その言葉が、今でも結構私の指針になってる。
「とりあえずその道に入ってから。
そのあとは何でもできる。科とか関係ないんだ」
って。
 
確かにそうだし、今となってはデザイン科に行かなくて全然良かったと思う。
工芸科にも行きたかったけど、やっぱり何でも良かったんだと思う。
  
 
 
– – – もの創りに意味やコンセプトが必要なの? 大学3年で初めて立ち止まった。
 
結局4大には落ちて短大からスタート,
それで3年次に編入合格出来て。
で、もう油絵はやらなくていいかなと思ってて、
版画コースを希望した.
めちゃめちゃ版画が好きってわけじゃなかったけど、
のちのち使うかも・・・くらいの気持ちで。
美大入ったのに油絵だけってのは勿体ない、
せっかくだから新しいスキルを身につけたいと。
 
私いつもそうなんですよね。ちょっと「下心」的っていうの(笑)?
純粋に「やりたい!」だけじゃなくて、「せっかくだからやっとくか」みたいな部分(笑)。
 
版画はね、面白かったけど、自分が何やりたいかわからないまま「リトグラフ」ってのを選択しちゃってさ、
そしたらもう先生は一番厳しいしさ~、一番難しいしでさ~、結構苦労した。
大学3年の時は一番大変だったかな。
好きなんだけど、結構立ち止まってる時期・・・だった気がする。
物を創るってことに対して。
 
ちっちゃいときからずっとご飯食べたり寝るのと同じ、生理的欲求みたいな感覚で毎日創ってたから、
「君はこれを創る事になんの意味があるんだ」とか、
「これのコンセプトは?」とかきかれることがとってもダメで。悩んじゃって。
「そういうことをふまえないと創っちゃいけないのかな?」って苦しんだ時期でもあった。
そういう状況が本当に初めてだったんだよね。
それまでは本能のままに創ってたから。
 
また、版画っていう媒体も向いてなかったのかも。
私すっごいがさつなんですよ。雑なの、「手が荒い」っていうか。
だから作品を仕上げる前の段階で、版をつぶしちゃうわ絵の具で汚しちゃうわ。
 
それでも1年間やったんだけど、4年への進級判定にひっかかってしまって
あんまりやりたくなくて、自分ではそんなつもりはなかったんだけど出した作品がふざけてるって、先生があんぐり口開けてさ。
「お前、吉田戦車か」って言われちゃって(笑)。
いいじゃん、吉田戦車好きだし、って内心思ってましたけど(笑)。
 
そうやって苦労してたとき、
ちょっと別の居場所というか、そういう場所にたまたま巡り会うことが出来て。
そのことがまた自分の進む指針というか,分岐点になったというか。
 
のんびり、ゆっくり物を創れるような環境
そこで版画のこともゆっくり考えつつ、久しぶりに粘土を触り出したんですよね。
 

写真 中井雅代

 

「『工房香月舎(かつきや)』香月礼(かつきあや)・後編」に続く。

 
 
工房香月舎(かつきや)
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