『 犬が星見た ロシア旅行 』たまたま出会った人たちの人生が交差する「奇跡」。タイトルの由来がわかるあとがきもまた名文。

 
武田百合子・著   中央公論新社 ¥760/OMAR BOOKS
  
― 人生の交差する瞬間  ―
  
今手元には2冊の本がある。
古びた単行本と真新しい文庫本。
どちらも『犬が星見た ロシア旅行』武田百合子・著。
 
セピアがかった古い方の下部には
「♡ 図書館 ♡ 犬が空見た。」という落書きがある。
以前勤めていた図書館で、処分扱いになっていたこの本を
何となく捨てるに忍びなくて持ち帰った。
だからラベルも貼られたまま。決してきれいとは言い難い。
存在すら忘れていたある時、読む手持ちの本がなくなりしょうがなくこの本を手に取って読み始めたら止まらなくなった。
結局捨てるどころか、何度も読み返す一冊になった。
  
今回紹介するのは、著名な作家・武田泰淳の妻・百合子さんが
夫やその友人とロシアの旅に同行した際の紀行日記。
横浜の港から船で出発するところから始まっている。
 
この本の素晴らしさを少ない言葉で伝えるのはとても難しい。
日記はこんな風に書かれている。
 
―朝食。
○パン○大きなソーセージとじゃがいもの裏ごし○グルジアチーズ(硬い)
~省略~
女給仕は早口でしゃべる。
「この海老は腐っている。食べない方がいいと思う」
~省略~
「もう武田は5匹、なまのまま食べています」
皆、気の毒そうに主人を見た。―
 
―売店でウォッカやぶどう酒を買う。絵葉書き7枚、13カペイク(ロシアの通貨)。―
 
こういう細かい出費を綴っているのも何だかいい。
また個性豊かな参加者たちが(こう言ったら失礼だけど、みんないい年をした大人たち)旅行会社のガイドを困らせたり、地元の人とのやりとりが微笑ましい。
 
一見、他愛のないこと。
それが彼女の手にかかると人も出来事も、ロシアの街の風景も、
そこに住む人々の営みも皆、活き活きとして新鮮で、どことなく可笑しい。
 
長い旅程を一日一日丁寧に記録した本書を読んでいると、
次第にこの本に流れる豊かな時間に愛しさを抱くようになっていく。
旅も終盤に近づきページが残り少なくなっていくのに哀しくなっている自分に気付いた。
 
旅はいつも終わることが前提にある。
旅が終わればもう二度と会うこともない人たち。
 
例えば、一度死んだ人が息を吹き返すとき、
私たちはそれを「奇跡」だというけれど、
本当はこういうたまたま出会った人たちの人生の交差する瞬間を「奇跡」だと言うのではないだろうか。
 
そして著者を始めこの本に登場する人たちはほとんどもうこの世にいない。
でもこの本の中では彼らは今でも生きて輝いている。
 
タイトルがなぜ『犬が星見た』なのか。
あとがきを読むとそれが分かる。
このあとがきがまた、ほのかに明るい切なさに満ちた、
滅多にない名文です。

OMAR BOOKS 川端明美




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