CAFE UNIZON・三枝克之雑誌のようなカフェ。価値観の違うひとが集える場所に。

UNIZON 三枝克之
 
「基本的に、プレゼントを作りたいと思っているんです。人が喜ぶような」
 
作本家の三枝克之さんは、「CAFE UNIZON」店主、編集者・著述家、出版レーベル・音楽レーベルのプロデューサー、芸術大学の非常勤講師など、一枚の名刺には収めきれないほど多くの肩書きを持つ。
 
「でも、どれも流れに身をまかせてやってきたという感じなんです。
まず声をかけて頂き、それが多くの人に喜んでもらえることであれば『やってもいいかな』って(笑)。
どんなことでも『自分がやりたい!』って思ってやったことがあんまりないんですよね。だから、ぜんぜん能動的じゃない。
  
自分が作ったものを喜んでもらったり、『救われた』『人生が変わった』と言ってもらったり、作品を介して見ず知らずの方にそういう風に感じてもらえることって、本当に一番素敵なことだと思うんですよ。お金に換えられない素晴らしいこと」
 
三枝さんが企画・編集したベストセラー「空の名前」シリーズの売り上げは100万部を超え、様々なドラマ、映画、邦楽の歌詞にも登場するなど、多くのアーティスやクリエイターにも影響を与えた。
 
「自分がやりたいからというよりは、人が望むことをやりたいと昔から考えていて、それは今も変わりません。
 
CAFE UNIZON を始めたのもなりゆきのような感じでした。それまでカフェを営もうと思ったことはなかったんです」
 
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– – – 空間自体が、カフェになりたがっていると感じた。 
 
沖縄に移住して二年ほど経った頃、でいご通り沿いに事務所を構えようと物件を探していました。
 
その頃、MIX life-style(ミックスライフスタイル)・オーナーの比嘉さんから「個展期間中だけちょっとしたカフェをやりたい」と相談を受けてお手伝いしたんです。
その際、この辺りに事務所向きの物件はないかと尋ねたところ、このビルの一室が空いていると。それで見せてもらったのがここ。あまりの広さに驚いて、「事務所には広すぎますよ!」と(笑)。
 
当時このスペースは一面に畳が敷かれ、がれきの山が至る所にあって手つかずの廃屋のような状態になっていましたが、見た瞬間に感じたんです。「空間自体がカフェになりたがっている」って。
 
比嘉さんも、かねてから MIX life-style の中にカフェがあったらと思っていたということもあり、僕がここでカフェをプロデュースすることになりました。
この場所がカフェになりたがっているからそうしたというだけで、僕自身がカフェをやりたかったというわけではないんです。
 
 
– – – 価値観が異なるひとたちが集える店に。
 
UNIZON を作るときに意識したのは、「専門書ではなく、雑誌のようなカフェにしよう」ということ。どんな人が来ても楽しめる店にしたいと考えました。
 
オープン時、すでに沖縄にもカフェブームの波が訪れていましたが、いわゆるおうちカフェスタイルが多かったんです。つまり、オーナーさんのテイストやセンスが店の随所に表れていて、それが個性であり売りとなっているお店です。
そういうカフェにはオーナーの価値観に共感するお客さんが訪れるわけですが、それはそれでもちろん素晴らしい。でも、自分がやるならその逆にしようと考えました。
 
つまり、価値観を共有しないひとたちが集まれる場所。
価値観を共有する人たちが集まるのは簡単ですが、これからの世の中を作っていくには、異なる価値観を持つ人どうしが共通のベースをどうにかして見つけることが大事なんじゃないかと思うんです。
 
そこで、UNIZON はある意味とても大雑把に作りました。
暮らしをテーマにしながら、ベースとなる骨組みとクオリティだけをある程度キープして、あとはどんな人が来ても受け入れられる店にしたんです。個性がないことが個性のような店に。
 
メニューは野菜をベースに、できるだけオーガニックで。観光客も沖縄の人も同時に楽しめるように考えています。
外国のカフェのように色んなひとが気軽に利用してもらえたら嬉しいですね。境界をとっぱらいたいという思いが常にあるので。
 
 
こうして、流れに身をまかせて飲食店を経営することになったわけですが、以前は歌手のプロモーションビデオなどを作る映像の仕事に就いていました。
 
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– – – 映像の仕事を楽しむために、映画会社でなくレコード会社に。 
 
もともと、映画を作りたくて大学に進学したんです。美学・芸術学を専攻し、アート全般について学びながら自主映画をずっと作っていました。
でも、当時の日本映画は斜陽も斜陽、このままなくなっちゃうんじゃないかというほど低迷していて、就職先としてまともに考えれれるような状況じゃありませんでした。
そこで、レコード会社への就職を検討するようになったんです。
 
僕が大学生の頃はMTVがとても人気で、日本でもプロモーションビデオを作るようになっていました。映像表現するなら低迷している映画業界でじゃなく、レコード会社のほうがより楽しくできるんじゃないかなーと思ったんです。もちろん、音楽も大好きでしたから。
 
レコード会社に就職し、最初に配属されたのは営業の仕事。
CDへと移り変わる過渡期だったので、レコード屋さんを回ったり、他業種のお店に通って営業戦略を練ったりしていました。
 
自分が本来やりたいこととは全然違う仕事内容ですから、始めたころはいやでいやでしょうがなかったのですが、徐々に面白いと感じるようになりました。
音楽を含むカルチャーをどうやってプロモーションし、販売していくのかというプロセスを眺めることができましたから、とてもいい勉強になりましたし、その経験は今にもしっかりと繋がっています。
 
このままこの仕事を続けようかと思っていたら、当初の希望だった部署「ビデオ制作室」に異動になったんです。
 
でも異動になってすぐ、「こりゃだめだ」と思いました。
 
– – – 自分の実力を知りたくて転職。
 
ビデオ制作室では主に演歌歌手とアイドルを担当していたので、テレビの仕事やプロモーションビデオの制作など、まさしく「THE・芸能」な仕事をしていました。
宮沢りえちゃんのデビュー曲のプロモーションビデオも作りました。
当時の宮沢りえちゃんは、クリエイターだったら誰もが彼女と仕事をしたい、彼女を使った仕事に関わりたい、そう思うほど魅力的なアーティスト。
芸能界の中でも、傍から見たらきっと一番面白い仕事だと思うんですよね。それ以上面白い仕事ってそんなにないんじゃないかな、といういくらい。
 
でも、それって結局はすべて会社の看板でやっていたことなんですよね。
自分ひとりで何ができるのかという部分がまったく見えない。自分にどれだけの実力があるのかを知りたいと思うようになったんです。
 
会社に属して上から下りてくる仕事をこなしていくというのは、大きな仕事ができるという良さもあるけれど、自分の性格上向いてないなと。
 
それと、僕は産業化されたロックより、「ロックンロール」がいいなって。人工的に感動をこしらえるのではなく、根源的な感動を伝えたいという想いもありました。
 
結局、自分とは全然合わない世界だったんだと思います、今考えると。
 
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– – – 朝日を見るくらしをするために沖縄か、京都か…。 
 
レコード会社を辞めるとき、ずいぶん青臭いことを上司に言ったんですよ(笑)。
 
「朝日や夕日をまともに見られない生活はいやだ、何かが違う気がする」って。
 
東京での生活は、洗濯機の中でぐるぐる回され続けているようなイメージでした。電車に揺られて朝から晩まで色々なところに行って、ひたすら回り続ける。
これは自分がしたい暮らしとは違う、ここから抜け出したい、といつも思っていました。
そのとき、沖縄に行くか、京都に行くかで悩んだんです。
沖縄が選択肢に上がった理由は、母親が沖永良部島(おきのえらぶじま)出身だったから。
 
沖永良部は鹿児島県といえど、基本的には琉球文化圏の島です。
僕が子どもの頃、夏休みに何度か訪れたことがあるんですが、泳いだ海の美しさ、時間の流れ方、島のいたるところの風景が心から離れなくて。
 
でも、当時は沖縄に行ってもまず仕事はないし、親戚がいるわけでもないので住まわせてもらえるとも思えなかった。
それに、レコード会社に入るような人間なので、都会的なところもそれなりに好きなわけです。
大学時代を過ごした京都を懐かしく思うことも多く、まずは京都に行こうと。
 
– – – 二つの職業への憧れと現実。 
 
京都で新たに仕事を始めるにあたって、パン屋か植木屋になれたらなと考えていました。それこそ朝日を見るために(笑)。
 
植木屋になりたかったのは、朝日が見られること以外にも理由があって…。
実は僕、「バカボンのパパ」にすごく憧れていたんです(笑)。だって、あんなねえ、好き勝手しながら楽しく生きていて、美人の奥さんがいて、賢い子どもがいて、もうひとり楽しそうな子どももいて。すごく良いじゃないですか!
 
でも、植木屋さんは今とは違って徒弟制度が残っていましたし、パン屋も今のようなブームが起こる前だから雰囲気がまったく違っていて。
現実的にこの二つの職業に就くことを目指すのはなかなか難しい部分がありました。
 
 
それで、たまたま編集者募集の広告を見つけたので履歴書を送ってみたんです。本の編集は未経験でしたが、映画でも編集作業をするし、本も大好きだったので。
 
採用されて会社に行って初めて、編集について教えてくれる人が誰もいないことがわかりました。というのも、そこは出版会社じゃなくて印刷会社だったんです。
 
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– – – 編集者の道へ。最初の作品がベストセラーに。 
 
そこは印刷会社ではあるのですが、出版コードを持っていて、美術館のカタログや作家の作品集を作ったりもしている会社でした。でも、綿密な編集作業が必要な本は作っていなかったので、編集部もなかったんです。
若い後継ぎに代わったばかりで色々やってみたいと考えていたようで、「とりあえず何か企画して」と言われて。
 
本づくりについて教えてくれるひとは誰もいなかったけれど、面白そうなので「やってみよう」と。
モノ作りのプロセスや考え方自体は何をやろうとそれほど大きくは変わらないので、レコード会社で学んだノウハウを生かすこともできました。
営業面でも、レコード会社で行っていたプロモーションや販路開拓の方法を採りいれたんです。
 
また、僕がこれまでに繋がってきた音楽ベースのビジュアルを扱う人、写真家やグラフィックデザイナーの方々にも仕事を依頼したことで、ジャンルの垣根を飛び越えて様々な業界の人と共に本作りに取り組むことができました。
一つの業界の中だけでモノ作りをするとどうしても視野が狭くなりがちですが、様々な分野で活躍する人が集まると新しい可能性が見えてくるわけです。
 
そうやって最初に作ったのが、「空の名前」という本でした。
 
ああいうスタイルの本はそれまでなかったので、できあがるまでは僕以外の誰もどんな本になるのかわからなくて。できた本を見た著者でさえ「あ、こういう本になるんですね」と(笑)。
 
その本がありがたいことに多くの人に受け入れられて、メディアやユーザーの反応もすごく良かった。それで自ずと、この仕事をやっていくことになったんです。
 
それから結婚を機にフリーランスに。
その後、子どもができて沖縄に移住し、そして専業主夫になったんです。
 
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– – – 人生で最も大変だった主夫業専念期間。 
 
最初は京都で子育てしていたのですが、沖縄の海が忘れられず移住を決意しました。
 
インターネットで繋がっているので、フリーランスでそれまでと変わらず本の仕事を続けることもできたのですが、「主婦の仕事ってどういう感じなんだろう?」ということに興味を感じていたので、主夫になることにしたんです。
同じく主夫をしたジョンレノンに憧れていたと言うのもあります。
 
それで妻が仕事に出かけ、その間僕は子育てに専念しました。
 
約2年間の主夫期間は、今思うと人生の中で一番大変でしたね。
 
僕らは基本的に資本主義しか知らずに育っているので、仕事とプライベートが分かれていて当たり前だと思っています。
でも、主夫業をしていると、その2つを分けること自体が生き方として違うんじゃないかなーと強く感じるようになったんです。
暮らしというのは仕事だし、仕事というのは暮らしだと。両方の価値観がうまく溶け合うのが、一番素敵な生き方なんじゃないかなって。
 
それを実践するのはもちろん大変なことだけど、今の時代、発展と利益追求が人をしあわせにするわけじゃないとみんな気づいていますよね。でも、だからといって貧乏に耐えられるのかというとそれも難しい。
ある程度豊かな環境で育ってきているから、心身ともについていかない。
 
また、景気が衰退してきた頃から「プライベートを大事にしよう」という風潮にもなってきたけれど、それもなんだか違う気がする。
 
実際にやってみてわかったのですが、主夫(主婦)の仕事って誰からも認められないんですよ。やって当たり前のことだと思われてる。やっても褒められないし、やらなかったから怒られる。お金ももらえないし、第三者が注目してくれることもない。でも、それをやらなければ家は崩壊するし子どもも死んでしまう。
ああ、これはなんて大変な仕事だろうと思いました。
学生時代も含め、自分がやったことを他者に評価されながら送る生活に慣れていましたから。
 
よく考えると、ジョン・レノンの主夫生活って、家政婦もコックもベビーシッターも、あと愛人さえいたんですよね。ジョン、あんたはずるい!って思いました(笑)。
 
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主夫の経験がなければ、カフェの経営でももっと自分を前に出したり、表に出て一から指示したり、ヘタしたらワンマンになったりしていたんじゃないかと思います。
 
スタッフとどういう関係をつくっていくか、スタッフの生活をどうしていくか、お客様にどういう価値観を提案できるか…。主夫業を経験したからこそ、あらゆる面で視野がより緩く、広くなったと思います。やっていることは表面的には同じなんだけど、土台の滑らかさが変わったというか。それまでただ漠然と感じていたことが、実体験を経て確信に変わったんですね。
 
仕事を再開するときに出した案内状に、「仕事という暮らし、暮らしという仕事」というコピーを書きました。
仕事とプライベートという垣根をなくして遊びを仕事にしたり、お茶を飲みながら喋っていることが仕事になったり、そういうほうが楽しいし自然だと考えるようになったんです。
 
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– – – 一つのことに特化するのではなく、何でも屋に。
 
店内に本を多く置いているのは、人とのつながりやカフェの持つポテンシャルを生かしたいと思ったから。
友だちのクリエイターやアーティストが、気軽にうちのカフェで個展やったり商品並べたりできたら、お客さんも喜んでくれるんじゃないかと思ったんです。
 
本のセレクト含め、店のことはすべてスタッフが考えてやっています。僕は完全に裏方。動かすのは現場です。
 
スタッフの子たちが、一人で生きていくためのノウハウをここで身につけられたらいいなと思っているんです。
 
本の販売や展覧会の企画・実施というのは、カフェ運営においては本来やらなくてもいいことですよね。
だけど、飲食店って単に料理がおいしいからといって流行るわけじゃない。ビジネスのノウハウ、人とのやりとり、企画の考え方、プロモーションのやり方…店をやるときはそういう諸々が絶対に必要になりますから。
 
一つのことに特化することに対して、ものすごく抵抗感があるんです。だからスタッフにも「なんでも屋」になってもらいたいなーって。
 
もともと「百姓(百の『姓』:かばね=職業・能力)」というくらいですから、人間が暮らしていくにはいくつもの仕事をしないといけない。
農家って畑仕事だけじゃなくて道具の手入れも自分でやるし、収穫した野菜を売りにも行かないといけない、夜は機織りをして、もちろん子育ても。
つまり全部自分でやる。それが本来の人間の暮らしだと思うんです。まさに、暮らしと仕事が混ざっているんですよね。
 
資本主義が衰えて来た今となっては、そこを見直さないといけないと僕は思うんです。昔の人は何でもできたけど、そういうのがなくなってきてるのはよくないなと。
 
僕は自分のことを文化系百姓だと思っていて、あえてなんでもやろうと考えています。
本も作る、音楽も映像もやる、カフェも経営するスイーツの販売も。結果的にですがノンジャンル、オールジャンルに近い感じで、中にはそういう人も必要なんじゃないかな〜と。
 
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– – – 101勝100敗でいい。
 
面白いことが好きで、これからも楽しいことをやっていきたいと思っています。それが儲かろうが儲かるまいが、自分が楽しくて人もそれが楽しいと思えることであればいいなって。
 
でも、楽しいことやるのってラクじゃないんですよね、逆にしんどいですよ(笑)。ラクだったことなんて一瞬もない。
だけど人生ってそういうものでしょう。ずっと矛盾を抱えてやっていくしかないと思うんです。
 
暮らしって、生きていくって、基本的にはしんどいこと。
しんどいからこそ、少しでも自分がイヤだなと思うことはやりたくない。
 
死ぬときまで自分の人生がどうだったかなんて判断できないと思うんです。
極端に言うと、101勝100敗で終われればいいなーって(笑)。最後の最後に一つ勝って終われたら。
そんなものでしょう、多分。これがネガティブなのかポジティブなのかわからないけれど(笑)。
人生なんて、良いものと悪いものの詰め合わせですから。
 
今後は、UNIZON を始めた当初の想いを実現していきたいですね。
 
いろんな価値観を持った人が、年代や性別に関係なく集まって、できたらここで何かが生まれたらいいなと。
それが何かということまではわからないし、僕がコントロールすることでもないので、自然に何かが生まれたらいいな。そう考えています。
 

写真・インタビュー 中井 雅代

 
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宜野湾市新城2-39-8 MIX life-style 2F
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