御嶽の中で祈りとともに歌を捧げる女性たちの姿。集落から選ばれたツカサンマ(神女達)だ。
その歌声は神に捧げるものでありながら、神の声そのものであるようにも聴こえる。
メロディーも調子も不均一で、譜面に起こすことも難しいであろう、伴奏のない歌。その歌声は神聖なトーンをもって、力強く響き渡る。
私は宮古島に生まれたわけでもなければ、沖縄本島出身者でもない。しかし、心のずっと奥深く、普段は自分ですら触れることのできないような隠された部分に、その歌は直接ビシビシと響いてくる。心が大きく揺らぐ。胸が苦しくなる。気がつくと涙が流れている。
とても不思議な気分だ。遺伝子に組み込まれた「何か」が歌に強烈に反応しているような感覚。これはきっと私が沖縄に住んでいるからというのでもなく、日本人だからというのでもない。おそらく、私が人間だから。数百年前に宮古で暮らし、歌を口ずさんでいた人々同様、この地球上に暮らす人間であるなら誰しも感じ取れる魂の響きなのではないか。
ツカサンマの歌が国境を越えて人々に感動を与える証明として、ロカルノ国際映画祭ではグランプリに次ぐ「批評家週間賞・審査員スペシャル・メンション2011」を受賞するという快挙を成し遂げた。
過度な演出を一切排除し、宮古のありのままを描き出した大西功一監督に話を伺った。
長崎トヨさん。東京でのコンサートの一幕。
– – – 嘘になるから言葉は添えずに。映像のみで本質を描く。
自分の想いや考えを表現するというのではなく、宮古の本質を描きたいという気持ちで撮りました。
何百年も変わらずに続いてきたものや人々の想いを編集によって描き出すという作業をしましたが、そこに自我は投影していないと思います。
もちろん、実際にそれを目にしたのも自分、感じたのも自分であるわけですから、自分が感じた宮古を提示したいなとは思っていました。それが何であるかという言葉は添えずに。なぜなら、言葉を添えるとどうしても嘘がでてきてしまうから。
例えばテレビのドキュメンタリーって大抵ナレーションをべったりくっつけていますよね。あれは嘘をつかなければ成り立たないんです。本当は断言できないことであっても「これは◯◯です」と言い切らないとしょうがない。「◯◯と言われてはいるけれど、本当のところはどうかわかりません」っていうのが真実だけど、そんなこと誰も言えませんから(笑)。
最後はちゃんと落とし前つけて、ラストに「現代にとってこれが結論である!」と言い切るためには嘘をつくしかない。でも、そういうことはしたくないので、僕は一切やらない。言葉を添えないとはそういう意味です。
ただ、それで難しい映画になっちゃいけないんですよね。宮古の普通のおじさんやおばさんが観るということはあらかじめ想定できていましたから、そういう方にもちゃんと伝えなければいけないし、「観てよかった」と思っていただきたいので、編集の際、そこには気をつけました。
続編は…ないでしょうね。ムリですよ、あれと同じクオリティで作るのは。あれが最後のチャンスだったな、と強く感じています。
一年後だとおばあたちの健康も心配だし、東京で行われたコンサートへの参加も難しかっただろうし。出演者の中には撮影が終わってから施設に入られた方、亡くなられた方もいらっしゃいます。違う視点での映画ならできるかもしれませんが、まあ、難しいと思います。
– – – 手拍子する人、笑う人…。最高に幸福な宮古島での上映会
宮古で先行上映を行ったのですが、想像以上に大勢の方が観に来てくださって入りきれなくなっちゃって。追加上映もして、結局三回やりました。
一回目は中央公民館の大ホールにパイプ椅子を並べて。750席用意したけれど800人以上来てくれて、席がなくて怒って帰る人もいる、という。
隣りの伊良部島からも船に100人も乗ってわざわざ観に来てきてくれたんです。本当に大盛況。観客席にはおばあの姿がすごく多かったですね。
宮古の人は「有料のイベントにこんなに人が集まることはない」ってびっくりしてましたね。「ありえない」って(笑)。
観客のみなさんの反応がまた素晴らしいんですよ。みんな色々としゃべってるわけです、映画観ながら(笑)。こっちが騒いだと思ったら今度はあっちが騒ぎ出して、ざわざわしながら、でもその中で泣いたり笑ったりね。
拍手する人もいれば、手拍子する人もいて。でも誰一人としてそれがうるさいな、鬱陶しいなと感じた人はいなかったんじゃないかな。
だから、すごい幸福な映画鑑賞ですよ。
– – – 消えいく島での生活と神歌。撮らなければ後悔する、と。
ミュージシャンの久保田麻琴さんが最初に宮古を訪れたのが2007年。彼は沖縄の古い歌を聴きたくなり、尋ね歩くことを始めたんです。そうして活動を続けていくうちに、宮古には御嶽の中で集団で行う祭祀が残っていて、歌い継がれている神歌(かみうた)があるということを知った。
その歌を知りたい、録音したいと彼は考えたわけですが、なかなかそれがうまくいかなかった。祭祀で歌われる歌ですから、基本的には録音に応じるようなものではないので断られてしまうわけです。
当時、久保田さんがハンディカメラで撮った映像も見せてもらっていたので、状況は知っていました。
やがて歌を歌ってもいいと言う方々と出会い、「沖縄・宮古の神歌」というCDを出したんです。高良マツさん、長崎トヨさん、村山キヨさんという、映画にも出演したおばあ三人の声を現地録音して。
久保田さんは他にも色んな方に出会って録音活動を続けていたのですが、2009年2月、僕に「東京でのコンサートの記録をお願いできないか」という話がきて。
神歌を映像に残したいと言っても、歌だけを撮影すればいいというわけではないなと思いました。なくなりかけてる祭祀や、何百年と続いてきた島での生活をちゃんと記憶しているおばあの存在がまず歌の背景としてあり、そこから歌が生まれているわけですから、その全体像を記録する必要があると思ったのです。
それらを知る機会はこれが最後になることははっきりとわかっていましたし、知りながら黙って見過ごしてそれが無くなってしまったら、自分は責任を果たせなかったことになるし、必ず後悔するだろうとも思った。「やはり撮らなきゃいけないな」と感じていたときにちょうど久保田さんからご相談を受けたわけです。
歌の背景にある島での生活を作品に、という考えと、消えいくものを記録するという二つの意味が自分の中にあったので、記録するだけではなく映画にしようと決めました。
コンサートの出演者はすでに決まっていましたし、彼らの背景を撮るという映画の骨格はコンサート記録の相談を受けてすぐに浮かんだものです。
久保田さんがおばあたちを東京に連れてきてコンサートを行う予定であると、そしてそれが2009年7月だと聞いて、それより前にと4月には宮古に飛びました。
おばあたちが東京に来たあとでは何かが変わってしまう気がして、その前に撮らなきゃという意識があったんです。
撮影期間は1年間。その間に東京と宮古を5回ほど行き来し、総滞在日数は4ヶ月と10日。一番長いときで2ヶ月間滞在し、撮影を行いました。
– – -宮古の第一印象は「この島のどこが良いんだ?」
実は、映画を撮影する前の年、2008年11月に初めて家族と宮古に行ったんです。久保田さんがすごく良いところだと言うものだから行ってみたくなって。
そこでやたらきれいな青い海を見て、飯食って、帰って来て…。「この島のどこがいいんだ?」と(笑)。
その時には宮古の良さを実感できなかったんですね。沖縄本島のほうが全然好きだなーって思っていました。
でも、撮影に行ったらやっぱり変わりましたよね。
映画の中で出てきたような祭祀には普通立ち会えないわけですから、印象が変わったどころじゃない。好きとか嫌いとかいう次元でもなくなりました。肉親みたいな人もたくさんできちゃったし。
– – -神歌を聴いて感じた「特別な時間」
撮影中は印象深いことだらけでした。
宮古島の文化は今も昔も御嶽を中心としていて、まさに神の島、御嶽の島という感じでした。
沖縄本島含め他の地域では徐々に薄まっている「信仰」というものが色濃く残っていて、いまだに生活の真ん中にある。そりゃ、現代的な生活してるひとがほとんどですが、まだしっかり繋がっている。そんな感じがひしひしと伝わってくるんです。
神に対する想いや色んなものが、深く根を張ってるんでしょうね。そうとしか説明のしようがない気がします。
神歌を歌う場面を撮影していたときは、やはり感じるものがありました。
それが編集したときに感じたことなのか撮っている最中に感じたことなのかが今では曖昧になっているところがありますが。僕自身は霊感があるわけでもないのですが、それでもやはり「特別な時間」が今きているなっていう空気は現場で察知していました。「ビリビリ来てるなぁ〜」という。
撮っているときは冷静でありつつもしっかり感じますね、ファインダーを通して集中してますから。
佐良浜(さらはま)の神事
– – -条件の厳しさから神歌継承者は減少傾向に
でも、ツカサンマ(神女達)がいなくなれば、その神歌も伝承できなくなってしまうわけです。
映画の中でやっていたように、何年かおきにくじをひいてツカサンマを決めるのですが、本人が断ったり、過疎化が進んで役割を務められる人がいなくなったりすると、そこでもう神事が途絶えてしまう。
そういう状況を避けるためにはツカサンマとなるための条件を緩めないといけないけれど、これがなかなか緩められないんですね。
宮古のなかでも小さな集落単位で分かれてそれぞれで神事が行われるのですが、みなおのおの言葉と儀式があり、継承の仕方も違うしツカサンマになるための条件も違う。何歳から何歳までの人しかだめとか、村で生まれた人じゃないとだめとか、よそから嫁いできた嫁はダメとか。地域によってはそういう条件をすでに緩め、神事の伝承を優先しているところもあります。だんだん変えていかないと継承できないし、実際に条件の厳しさが理由で神事が途絶えた地区もすでにありますから。
神歌というのは誰でも継承できるわけではありません。ツカサンマとして選ばれたひとが 御嶽に入って口伝していくもの。しかも、民謡のように3分~5分で終わるわけではなく、何時間もかかる歌もある。
神に捧げる歌ですから、歌謡曲のように気軽に唱うものでもないし、三線などの楽器を使って民謡として継承することもできません。
映画の中に譜久島雄太という民謡を歌う男の子が登場します。彼も非常に大きな期待を背負った宮古の星ではあるけれど、彼はおばあではないので、神歌は継承できないわけです。
譜久島雄太くん
– – -録音でも映像記録でもない、映画として撮影することの意味
神歌同様、変わりゆくもの、失われていくものに対する思い入れは昔からありました。
大学の卒業制作では、消えゆく大阪の街を舞台にギター流しとして活動する人物を追ったドキュメンタリー「河内遊侠伝」を撮影していますから、そう考えると当時の意識を現在にいたるまでずーっと引きずっていますね、自分の中で。
もちろん、依頼を受けて撮影する際は自分がテーマを選ぶわけではないので、そういう思いを表に出すこともありませんが、大事なものが失われていく現状を見定めたいという意識は強いし、映像というメディア自体がそういうことを得意分野としているとも思うんです。
口伝やCDなどで歌そのものを継承することはできたとしても、情景だったり背景に何があったかというような情報まではなかなか記録できません。
また、シーンを組み合わせて編集していくことで、重要な何かが浮かび上がってくるんです。それが映画として撮る意味だと思います。
実は、昔は全然映画が好きじゃなかったんです。別に嫌いだったわけでもありませんが。
僕、ロックばっかり聴いてるロック少年だったんですよ(笑)。将来監督業をやりたいなんて考えはまったく頭になかったですね。
大学在学中、二十歳のときに縁あって報道カメラマンの助手をやり、テレビの世界に就職して映像業界に入りました。
しばらくすると「自分でもの作りをしたい」という強い思いが出てきて、そのときに映画と出逢ったんです。今はテレビの仕事よりもめっきり映画にのめり込んでいますね。
佐良浜(さらはま)の神事
– – -現代化が進む中で捨ててきた多くのもの。このままでは我々は迷子になる。
2011年の1月末には編集を終えて映画はほぼ完成していましたが、その後震災があり、強く感じることが徐々に色々と出てきました。
もともと僕は国家も個人も自給自足ができないといけないんじゃないかと思ってるんです。でも、その考えを実生活に落とし込むところまではやってなかったんです。この映画に関する仕事が一段落ついたら、東京を離れて実践してみたいと思っています。いろんな状況があるのでできるかどうかわからないのですが。
生活を変えることに踏み切ろうと思ったきっかけは、この映画と震災の両方だと思います。
すべてのラインが絶たれても自分で生きていくことができるかというのは、非常に大事な問題だと思うんです。
田舎から都会に出てきて、新しい時代の中で色々なものを捨てながら生活して…。そうすることで良いこともあったんだろうと思いますが、根本的なことをもう一度見直さないといけない時期にさしかかっていると思います。このままじゃ本当に我々は迷子になってしまう。
しかし、僕らが失ってきたものが宮古にはまだ残っていると感じました。映画の中でもおばあが子どもを産んだときの話がでてきましたよね、病院ではなく畑で生み、自らへその緒を包丁で切って…。そして歌う古謡(アーグ)がある。子どもの将来を想って願う歌。そういう体験をしてきた方の話を聞いていると、その時代に戻らなければいけないというわけじゃないけれど、そこに原点を見出して考えないといけないことがあると思うんです。
自給自足ってすごくわかりやすい話ですよね、自分が食べる分を自分で用意する。種を植えて実となったものを頂く。それは自然と対話することでもあります。肉を食べるなら自分で動物をしめて食べる。そうしないと感謝の気持ちなんて起こりようがないじゃないですか。そういったことをやりたい。それを自分の再スタートにしたいと思っています。
– – -自分のルーツと今生きている社会について見直すきっかけに。
宮古、東京、沖縄本島。それぞれの地で上映したときに持つ意味合いは少しずつ違うとは思いますが、見終わったときの気持ちには共通するところがあるんじゃないかなーと思いますね、普遍的な部分においては。
みんながきっとおのおののことを考えるし、今自分が生きている社会についても考えますよね、きっと。そういう意味では上映する場所に関わらず共通する部分はあると思います。
もちろん、宮古を独特の場所と捉えるひとにとっては異質なものに映るわけですよね。東京の人間からするとまるで違う世界だし、外国人にとってもそう。
でも、自分の住む土地や国にあることと照らし合わせることもあるかもしれないですよね。スイスなんかは精霊信仰が結構盛んみたいなんですよ、思ってもみなかったことなのですが
『スケッチ・オブ・ミャーク』は宮古について記録した映画ですけれども、宮古の深いところ、本質的な部分を写して表したつもりなので、そのことは宮古のみでなく沖縄のルーツにも繋がると思います。沖縄本島で上映するにあたり、本島出身者だけでなく、離島や本土、色んな場所で生まれ育ったひとが観てくださると思うのですが、おのおののルーツについて思ったり考えたりしてもらえたらと思います。
沖縄の人は沖縄を、本土の人は本土の現代を見るだろうし、おばあたちの姿から自分の親や祖母を思い出したり考えたりもするだろうし、そうやって自分の根っこについて思いを巡らせることができると思います。
それと同時に、すごく大事なことを置いてけぼりにしているという現実を否応なしに見せつけられる映画だとも思います。
たとえば環境破壊が進み、すぐには元通りに直せないところまできている。そういう問題を目の当たりにして、自分で考え始めることが大事なんです。今私たちは大きな時代の問題にぶち当たっている、そのことをこの映画を通じて共有できたらと思っています。
できるなら、映画を観てどう感じたか、個人個人に訊く機会がどこかで得られたらいいですね。僕自身ももっと突き詰めて考えていきたいですから。
インタビュー 中井雅代
10月20日(土)より、桜坂劇場で公開
*大西功一監督とUAさんによるトークショーが行われます。
10月20日(土)
@桜坂劇場
那覇市牧志3-6-10(旧桜坂シネコン琉映)
098-860-9555(劇場窓口)
HP:http://www.sakura-zaka.com/movie/1210/121020_sckechof.html
13:00の回の上映終了後
ゲスト:大西功一監督、UAさん
*当日13:00〜の回をご覧になった皆さん全てがご参加いただけます。
(映画のチケットのみで入場できます)
環境問題や平和を願う活動に力を注ぎ、沖縄移住後、子供たちの安全な食と未来を考える団体「ティダノワ」を設立した、女性歌手UAさん。宮古島の古謡と神歌を綴る「スケッチ・オブ・ミャーク」に強く共感した彼女と大西監督のトークショーを行います。作品への思い、沖縄への思い、そして自然への思いをお伺いします。
『スケッチ・オブ・ミャーク』
公式ウェブサイト:http://sketchesofmyahk.com