沖永良部島出身の両親が当時の集団就職(日本の高度成長期に盛んに行われた、農村から都市部への大規模な就職運動のこと)で神戸に移り住み、僕はその神戸で生まれ育ちました。両親は沖永良部島から出て約半世紀ほど経ちますが、両親の兄弟の半分が沖永良部島出身者同士で結婚したのもあって、たくさん親戚のいた神戸での集まりはリトル沖永良部島。当時フェリーで38時間かかる島にはなかなか帰れなかったけど、この環境のおかげで濃いめの沖永良部島&関西ミックスの僕が出来上がりました。
沖縄本島から北へ60キロ、本部港からフェリーで4時間。
沖永良部島は和泊港へ到着。
父方の祖母の米寿の祝いで親類縁者が全国各地から集まりました。
レンタカーを借りに隣の町へ向かっていると「たつや兄ちゃーん!」と道でばったりすれ違ったのは久々に会う従兄弟たち。
ついこのあいだまで小学生だったのに!なんだかすっかり、大人っぽくなっている!
そんなこんなでばあちゃんの米寿の祝いがはじまりました。
いつも一生懸命、菊づくりをしている叔母もバシっとかっこ良く決まっています!
挨拶、余興、乾杯!挨拶、余興、乾杯!挨拶、余興、乾杯!はつづきます。
叔父たちを筆頭に男たちの余興「やっこ踊り」もはじまりました。
僕も扇子を片手に必死に見よう見まねで叔父さんたちの動きを追いかけますが、キレッキレッの動きにについていけるわけもなく。さすが陽気で明るい南国育ち 。みんな芸達者。
集まってくれた人たちもばあちゃんの子供や孫の踊りに大笑いでした。
なかなかこんな機会でもないと会えない人や遠くに住む親戚や従兄弟たち 。
元気に長生きしてみんなを見守ってくれている祖母、そして沖永良部島に帰る場所があり、いつもあたたかく迎えてくれる叔父や叔母に感謝です。
あくる日の朝はちょうど大潮の満潮。夜明け前に起きて、沖永良部島に住むマサ(従兄弟)の案内でウミガメの産卵を探しに行きました。残念ながら 産卵に遭遇することはできなかったけど砂浜にウミガメの足跡が。
緑に覆われた石灰岩の断崖絶壁が目の前に迫る姿は迫力の景観。
車で港を散歩をしている大きな犬を見かけ、ヨメが強面のおじさんに「おはようございます!おっきい犬ですねーなんて名前ですかー?」とたずねると、「あーこれー?りぼんちゃん!」とおじさん。
ばあちゃんちが遠方からの来客で溢れていたので、僕たちははじめて家族でペンションに泊まることに。
子どものころよく泳いだ砂浜がちょうど真下に見え、母が小さかったころ、水を汲みに行ったという泉もすぐ近くです。長女の母は妹や弟たちのため、小さな身体で大きな水がめを頭に担いで、急な坂道を毎日一生懸命登ったそうです。海を見下ろしているだけで次々と両親の苦労話や思い出話に花が咲きます。
海亀が1匹、2匹、3匹、4匹・・・「あっそこにも!ここにも!」
思いがけず、リゾート気分も満喫。
両親のこんなに無邪気で(笑)楽しそうな顔を見たのは久々。
そして絶景朝ごはん!
母が食事の後に「ああ、命の洗濯やなあ、また神戸に帰って仕事がんばろう」。
よかった、よかった。
母方の祖母で91歳になるばあちゃんや叔母たちとも一緒にたくさん笑って、かけがえのない時間を過ごすことができました。
さっきまで見下ろしていた海。
着の身着のまま、海に飛び込むヨメと妹。
沖永良部島を出発する前に寄ったのは国頭小学校。
日本銘木100選の日本 一のガジュマルです。
明治31年に植えられ樹齢117年、幾度もの強烈な台風に耐え、気根をしっかりのばし、枝の重みを支え、ここに来るたびにどんどんたくましくなっている姿を見せてくれます。どっちのばあちゃんの毛も真っ黒で動きも早かったころからのこの樹の下で遊んだ思い出がたくさんよみがえります。
これからも島のこどもたちや家族を静かに強くやさしく見守ってくのでしょうね。
ではまた来年!ふるさと沖永良部島からでした。
文・写真 葉棚達也・由真
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