暮らしの中の旅日記「哲平のうつわ」

 

  

写真・文 田原あゆみ

 

 

 

陶芸家の小野哲平氏。彼の作品は全国的にも有名で、フアンも多い。
最近は中国やニューヨークでも個展が開催され好評だったと聞く。
世界的にも名のあるホテル、アマンのコーディネーターが彼の皿に惚れて、ホテルの接客用にまとめ買いをしたという話を主宰した友人から聞いて感動をおぼえた。
煮付けや、煮っ転がし、カレーにパスタ。そんな家庭的な料理にぴったりだと思っていた哲平さんのお皿があのアマンの空間の中でどのようにしつらえられるのだろうか?ニューヨークのアマンに泊まることのできる人になって、いつか見てみたいものだ。

 

 

さて、ところ変わってうちの食器棚事情。
ご飯をいただく時にちょうどいいサイズの中平皿が7枚。
どれも気に入って購入したものばかりで作家さんのことも知っている。

 

その中で、定休日なく活躍しているのが、トップ写真の朝ごはんが載った一枚。もちろん哲平さんの作品。

 

今ではお互いの人柄を知っている間柄。けれど、もし彼に会ったことがなかったとして私はこの皿を今のように頻繁に使っているだろうか?自身に問うてみた。

 

 

答えは「Yes」。

 

 

その人を知らなくても知っていても、食器と私は一対一の関係だ。プライベートな空間で人は素直に使いたいものを使うはずなのだから。
何だろう、使っちゃうんだ。手が伸びてゆく感じがあるのだ。

 

当の本人と議論して胸がふつふつと湧き立っていたときにも、やっぱり哲平さんのカップでコーヒーを飲んでいた。
カップたちからはいつでも温もりが伝わってくる。

 

Shoka:では明るい空気の日も、重たい雲が立ち込める曇りの日でも使わない日が全く無い小野哲平作のカップたち。

 

 

 

そうこの子たちがそのカップと、私の平皿。
使うほどの艶が増し、色に深みが出てきているように感じるのは、使うみんながこのカップが大好きで、大切に扱っているからだろう。
ちなみに4個あるカップたちはこの5年間割れたことがないし、欠けてもいない。

 

 

日常使いのものに対する使い手の感覚はとても正直だ。
うつわたちばかりではなく、服だって何だって手が勝手ににゅっと伸びてしまうものがある。
なんでだろう?と考えても見つけた理由は後付けのようなものだ。
思考が働く前に手が伸びるものは、きっと今の自分の感覚にぴったりくるものなのだろう。

 

このことについては前回の企画展の時にも記事を書いたので、ぜひ再読をどうぞ。まだ読んだことのない方はぜひ読んでみてほしい。無機的だと思っているものの中にも命はこもっているものなのだ、ということが伝えたくて書いた記事。

 

哲平さんの器

 

 

 

小さめの急須は、お茶の種類にもよるけれど2人から3人分を入れるのにちょうどいいくらい。
中国茶を入れるのなら小さな茶杯6人分はいけそう。

 

砂糖を溶かしてかけたような柔らかな肌は手の平にしっとりと優しい。厚みも程よく手に馴染む。
使ってゆくほどにいい艶が出てくるのだろう。この子に巡り合う人は幸運な人だ。

 

おしゃべりしそうな愛嬌と、お茶の時間に優しく寄り添う器量を感じるから。
まだ誰にも使われていないのに、この急須の周りには寛ぎが漂っている。

 

 

 

 

初秋のある日。前日の夜に高知から飛んできた陶芸家小野哲平氏。
初めて豪華なパンケーキを頼んだんだよ、とうれしそう。

 

一枚目のポートレートと違って、嬉しそうに笑う哲平さんはあの急須のようにほっこりとした愛嬌がある。

 

彼には燃えるような一瞥を人に向ける激しさと、幼い子どものような笑顔が飛び出す温もりの両面がある。
もちろん、にくにくしい一面を感じたりすることもあるが、付き合えば付き合うほど、優しさや懐の深さが滲み出てくる。
人間らしく正直な人だと感じている。
その作品たちもやはり本人の写し鏡のように、とろけるような優しさと、時には愛嬌。そして火を想起するような強さが混在している。

 

 

哲平さんに可愛がってもらった。
哲平さんは優しいよ。
哲平さんに詰め寄られた。
哲平さんが誰々に喧嘩を売っていた。
哲平さんに「一体何がしたいんだ?」と鋭い目つきで問われた。
哲平さんは意外と心配性。

 

そんな話を耳にするたびに、正直にぶつけているなあ。いろんな面をモロ出しして生きている面白い人だな、と感じる。

 

相手の顔色を見て、自分の本当の感情を抑えていると、本当の姿が見えなくて逆にとっつきにくかったり、感想を聞いても無難なことしかきっと返ってこないだろうという感じがして、信頼感が育たない。その人が見えてこないし、こちらもなかなか自分を出しにくくなってしまう。

 

人でもものづくりでもどんな仕事でも、結局は同じこと。

 

誰かには好かれて、誰かには嫌われる。この世にたくさんいる人類の、ほとんどの人はきっと興味を示さないし知ろうともしない。
そんな中で、たまたま興味を持ってくれた人や、好きだと向き合ってくる人々に正直な今を投げてみる。
まだまだ未熟だと内面からやじる声が聞こえてきても、悶えながら今の最善を差し出す。そうしてみると、言い逃れができない分、結果の良し悪し全てが自分の肥やしになるのだ。
外にも自身にも誠実な姿だと感じる。

 

批評批判してくる人がいたらそれを火種にして、もっと燃えてみるに限る。もしくはレッツドロン。100人の中で1~2人のネガティブな意見に振り回されるより、自分の内面から湧き出る声に従ったほうがいい。そうしないと、相手の顔色を見て自身が空っぽの表現となってしまうだろう。
周りの人は気が付かないくらいのことだったとしても、自分自身は騙せないので少しづつ熱を失う羽目になる。

 

哲平さんは若い頃から燃えていた人だと聞く。
今回の個展の時には、この辺のエピソードを聞いてみたい。

 

 

 

力強さを感じる大皿の上に、やさしい肌のあの急須。
哲平さんの「それでいいのか?」と問うてくるような力強さと、「そのままで大丈夫だよ」という優しさと。
その二つの顔がこの作品から伝わってくるように私は感じる。

 

 

日常的にお花を生けるのにちょうどいいくらいのサイズの花器。
この肌に現れた模様に釘付けになった。

 

荒々しさとふくよかさの両面がとろけだしているのだ。
個展の案内の葉書にはこの花器を使いたいと思って色々撮影してみたが、なかなかうまくいかず。

 

何か生けるものはないかと近くの山に行って、ああしたりこうしたり。
ふと、年末に生けた大輪の菊の花と玄関で目があった。
うちに来て10日以上が経過した、赤銅色に開ききった菊。
円熟した女性を思わせるその花をそっと生けてみた。

 

 

それがなんともしっくりきたのだ。

 

熟して縁から乾いてゆく寸前の花びらを弾くでもなく、その艶やかさに沈むわけでもない。
共にとろけてゆくような様がなんとも力強くて優しい。

 

小野哲平氏、人も作品もいいうつわだ。

 

 

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小野哲平 作陶展
「土がある」

 

陶器は硬いのに、哲平さんの作るうつわにはなんともいえない柔らかさがある。
その肌は冷たいはずなのに、場を温もりで包むのだ。
いつも使っているはずなのにいまだにはっとすることがある。料理を載せた時に
お皿が笑ったように見えるから。
まるっこい急須には愛嬌がある。
人が作るものは、その人に似るのだなあ。
熟れた菊の散り際をふっくらと受けとめたこの壺を、なんと形容していいものか?
未だ言葉にならないでいる。
子ども、学生、大人たち、老若男女誰も彼も、このうつわたちに触れて欲しい。
肩の力をふっと抜いて、素の自分が一番いいのかもね。そんな気持ちに寄り添
うような、小野哲平のうつわたち。

 

会期 令和二年 二月七日(金)~二月十六日(日)火曜定休
作家在廊日七日・八日

 

場所 Shoka: 沖縄市比屋根6ー13ー6

 

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