» Halau Hula Kalakaua(ハラウ・フラ・カラカウア)ハワイ大会で入賞10回 ハワイがなくしても沖縄に残したい本物のフラを学ぶ


 
「フラだけじゃない、ハワイを学べるんです、ここでは。」
 
レッスン受講歴を訊くと、
6年、8年・・・と答えが返ってくる。
 
教室に入って来るハウマナ(ハワイ語で「生徒」)たちは、
お互いの頬をくっつけ合い、
「アロハー」
と、愛情を込めて挨拶をし合う。
 
私は、これから陽気な音楽を伴奏に、
楽しいフラダンスの練習が始まるのだとばかり思っていた。
 


レッスンが始まる前に、クム(先生)とハウマナが教室の両端に別れ、ハワイ語で長い挨拶を行う。
その後、両者は中央に集まって手をつなぎ、目をとじてこれもハワイ語で祈りをささげる。

 
ハワイ語による祈りが終わり、
ハウマナ達がスタート位置でスタンバイすると、
流れて来たのは陽気なハワイアンミュージックではなかった。
 
イプヘケと呼ばれる、2つの瓢箪をつなぎ合わせたものを床に打ち付けたり、
表面を叩いたりしてリズムをとる。
古典の伴奏で用いられる楽器だ。
 

 
イプヘケが刻む不思議に心地よいリズムと、
クムからの動きの指示、
生徒によるかけ声とも指示に対する返答ともとれるような両者のハワイ語が
静かな教室に響く。
 
それは、「フラダンス」という言葉から一般的に想像されるような
賑やかでいかにも南国然とした明るさに満ちたものではない。
 
生徒達の顔にも笑顔はなく、荘厳な雰囲気に包まれている。
 
一糸乱れぬ動きで、何分間も踊り続ける生徒達の額からは
汗が流れ落ちてくる。
一つの流れが終わると、みな荒い息を吐く。
呼吸を整える間もなく、次のフラが始まる。
 

 
「これは『カヒコ』と呼ばれる古典のフラなんです。」 
 
私たちがイメージする明るい雰囲気のフラは、現代のフラ、「アウアナ」と呼ばれる。
 
「ハワイはもともとは文字を持たない文化だったため、
『フラ』と呼ばれる踊りと『チャント』と呼ばれる歌によって
史実を継承してきました。
ですから、クム・フラ(フラの先生)という仕事は、
記憶力が良い人しか就けない仕事だったんです。
カヒコの内容は、ハワイの歴史です。
例えば家族の事、皇帝の事、海のこと。全てが本当に起こった事。
だから、間違えちゃだめ、間違うと歴史が変わってしまうことになるから。
 
フラの大会に20人ものジャッジがいて、
ハワイ語、脚の形、手の表現力など、全てを細かくジャッジするのはそのため。
『間違っている』『本来の踊りと変わってきている』
という風に、とても細かくジャッジペーパーに書かれてしまいます。
 
だから、大会に出るのはとても勇気のいること。
ただ見て、手を叩いて、楽しんで・・・っていうフェスティバルじゃないんです。
衣装も、レイの設定は正しいか、その時代にそういう衣装があったかどうかなど、
大会の度に勉強しています。
古典のフラには、歴史の継承という役割があるんです。」
 

ハワイで行われる大会への招待状を受け取り、喜ぶクム。「希望して出られる大会ではないので、招待頂けるのはとても嬉しいですね。」
 


 
現代のフラであるアウアナが始まると、
教室の雰囲気も一変する。
古典のカヒコを踊っている時に私が感じたのは
「神」と「祈り」。
神聖で厳かな、空気の密度がぎゅっと濃くなるような雰囲気だった。
 
そこに、殆ど前ぶれなく、クムがウクレレを奏で始める。
 

 
それまで真剣だった生徒達の顔に、
穏やかな笑顔が浮かぶ。
それが、本当に不思議な表情なのだ。
ただの笑顔ではない。
私たちが日常的に浮かべるような表情ではない。
 
その表情からダイレクトに伝わってくるのは、
深い深い「愛」だ。
踊ることに対する、人に対する、自然に対する、クムに対する、万物に対する、
「愛」。
そして、「感謝」。
彼女たちが語るハワイ語は全く聞き取れないし、
その手の、脚の動きが何を意味するのか私は何もわからないのに、
そのまっすぐな想いは、ドキッとするほどダイレクトに響く。
 
表情だけではない。
何かを大切に慈しむように動くたおやかな手の流れも、
大地を踏みしめるようにしっかりと床をとらえる足の動きも、
その一つ一つが、見ている者に語りかけてくる。
 

クムの指導の手伝いをする「アラカイ」であるPoli(ポリ)さん。
声の向こうにハワイの優しい山々が見えるような、澄んだ、強い、深みのある歌声

 

 

 

浦添の一角にある緑に囲まれた教室。見晴らしの良い高台にあり、ハワイの自然に囲まれた一軒家を思わせる。 
 
クム・フラである大田エコ先生は、
幼いときからハワイアンに囲まれて生活していた。 
 
「父は建築の仕事に就いていて、軍の建物や沖縄のビルなどを建てていましたが、
ハワイの企業と組んで仕事をするときは通訳も務めていて。
ハワイからくる通訳は日系ハワイアンなんですが、
仕事の場だけでなく、プライベートでも仲良くお付き合いをしていました。
子ども達を連れていくと親しくなりやすいということもあったのでしょう、
私もいつも連れて行かれていました。
 
ウクレレは4年生から弾いていましたし、フラは当たり前、
やらなきゃいけないもの。パーティーで踊らされるんです。
女の子たちは日曜に集められて練習、それがイヤでイヤで(笑)。
 
一方、お兄ちゃん達はサーフィン、それが羨ましくてたまらなかった。
 
大学を卒業後、沖縄で初めてのサーフショップを立ち上げました。
そのお店の名前が『カラカウア』。
『カラー』は太陽、『カウーア』は雨という意味。
雨の日もあれば晴れの日もある。
海も同じ、波がある日もあれば、無い日もある。
それって人生と同じだなって思ってつけた名前でしたが、
偶然、ハワイにも同じ名前の国王がいて。
しかも、カラカウア国王の時代になって初めて、フラが復活するんです。
フラに貢献してくれた王様なんです。」
 

 
「1990年に、あるパーティーでアンクル・ジョージに出逢いました。
『彼はフラの有名な先生だよ』と紹介されたのですが、
ハラウ(フラの教室)に通ったこともないし、フラに興味もなかったので
私は、『ふーん』って感じで(笑)。
ジョージが、
『踊る?』って訊くので、
『ちょっと踊れるよ。』
『じゃあ、僕が弾くから踊ってごらん』。
 
その時、私ったら失礼にも
『おじいちゃんは踊れる?』
って訊いたの(笑)。すると、
『いいから早く踊れ!』
って。
歌い始めると、それはもう驚くような美しい声で。
そりゃそうですよね、
マスター・クム・フラ・ジョージ・ナオペといったら、
ハワイでは知らない人のいない、ハワイの人間国宝ですから。」
 
エコ先生は、フラの神様とも呼ばれる大御所の前で踊ったのだ。
 

 
「私のフラを見た後、
『ハワイに来る時には僕のところにおいで』
と名刺をもらって。
その頃はサーフショップの仕入れとサーフィンをしにハワイまで行っていたので
翌月早速行ったんです。
そしたらいきなり
『お稽古するよ』
ってサーフボード置かされて、急にお稽古が始まっちゃって。
なんのこっちゃ?って感じだったんですけど、
最初にやったのがカヒコ(古典)だったんです。
それまではアウアナ(現代フラ)しかやったことがなかったんですが、
カヒコがもう、面白くてたまらなくて。
私と彼と二人だけ、他に誰もいなくて、彼が太鼓を叩いて。
でも、面白いから約2週間の滞在中、毎日通いました。
そしたら、
『次はいつくるか?』って。
『じゃあ3ヶ月後。』
『その時は1ヶ月くらいいれるようにしたら?』
って言うから、じゃあそうしま〜すって。
その繰り返しで彼のところで学び始めました。
 
行く度に有名なミュージシャンやフラの大御所を紹介してくれたり、
フラの大会に連れて行ってくれたり。
彼はとても有名な人ですから、みんな拍手で迎えるんですね。
 
そうやってお供させてくれていたのは、
私に彼のフラを継承させようと思ってくれていたのかもしれませんね。」
 

 
ハワイと沖縄を行き来し、
サーフショップを経営しながらフラを勉強して10年経った頃、
アンクル・ジョージから「沖縄にハラウ(教室)を作ろう」と言われた。
 
「私は仕事がありますからって最初断ったんです。
それに、沖縄でフラは普及しないとも思いました。
お稽古ごと自体する人が少なかったし。
そしたら、
『僕が教えたものを沖縄に残したくないの?』
『でも・・・人が集まらないもん』
『1週間に1回、1時間の1クラスだけでいいからスタートしよう』
って。
それで1997年に彼が沖縄に来て、私の事務所のすみっこで、
『ここを教室にする!』
と言って、始まりました。」
 
日本での公演も多かったアンクル・ジョージは
毎月のようにハワイから東京を経由し、沖縄へやって来た。
 
「私、貧乏だったから
来てもらってる間はうちに泊まってもらって、ごはんも一緒(笑)。
そうやってずっとお稽古をつけてもらって。
だから、教室の最初の生徒たちは彼に直接教えてもらってるんですよ。
今考えるとなんて贅沢なんだろうって思います。
 
頻繁に来ているうちに沖縄を好きになったみたいで、
長い時は3週間、短くても1週間くらい滞在するようになりました。
その間、私にも生徒にも毎日お稽古をつけてくれて。
生徒が
『いくら払ったら良いですかね?』って言うから
『じゃあ・・・500円くらい集めてくれる?』(笑)。
5人くらいしかいないから合わせて2,500円くらい持っていきましたけど、
今思うと怖いですよね。
東京で教えてもらっていた人に後で訊いたら、
一人15,000円だったって(笑)。
それ聞いて私、冷や汗出ましたよ(笑)。」
 
2000年、エコ先生はクム・フラ(フラの先生)となるための「ウニキ」というプロセスを経て、
その時試験を受けた中で唯一の合格者となり、クムの称号を得た。 

クムは指導者であるため、フラの大会に出場することはできなくなる。
生徒達の育成に全力を注ぎ、
すぐにハワイの大会に出場、
初参加で入賞するという快挙を成し遂げた。

「それから毎年、9月に行われるハワイ島コナでの大会と、
11月のオアフ島での大会に出場しています。
15回出場して10回入賞しているから、確率は高い方じゃないかしら。」
 

 
2009年、アンクル・ジョージは惜しまれつつ亡くなった。
 
「亡くなる前に会った時、
『師匠であるあなたがこんな状態で、
私は誰についていけば良いの?』
って訊いたんです。そしたら、
『お前はもう、一人で十分やっていけるよ。』
って。」
 
その言葉をきっかけに、
よりいっそう、心を込めて後進の指導に当たることを決意したという。
 
「ハワイの本来のフラが失われつつあるんです。
古典ってとても素敵なのに、古過ぎると思う人も多いみたいで。
やっぱり、ウクレレに合わせて踊る、
陽気な現代フラが好まれ、よく踊られる傾向にあります。」
 
エコ先生が古典に惚れ込んだのは、
アンクル・ジョージの影響が大きいという。
 
「彼の朗々とした声と、その歌いっぷりが素晴らしくて。
心にうったえかけてくるような歌声なんです。
 
彼が私に『チャント(歌)』を教える時、
私がどんなにやっても
『声が出ていない、イメージがわかない』って。
そこで彼が森の歌を歌うと、本当に森が見えるんですよ。
浮かんでくるんです、目の前に本物の森が。
そんな彼の歌声にしびれましたね、心から。」
 
幼い頃はフラがイヤでイヤでたまらなかったというエコ先生。
アンクル・ジョージに出逢っていなければ、今の自分はないという。
 
「おばあちゃんになってもサーフボードを持って・・・というのが夢でしたから。
1996年頃まではサーフィンもやっていましたけど、
ダンサーは手足や顔を傷つけちゃいけないと言われて、控えるように。
また、市場の変化やフラへの想いの深まりが、私の人生の転機と重なって、
2007年頃にサーフショップをきっぱりやめました。
それからは朝から晩までフラだけ。フラが中心の生活になりました。
そうやって練習を積んで、毎年大会に。
 
09年に彼が亡くなったのですが、
すごく長かった自分の髪を、彼の棺桶に入れたくて切ったんです。
正直に言うと、髪を切ったのは『フラを辞めようか』という気持ちもあったから。
師匠がいなかったら無意味だし、
自分のフラがだんだん嘘になっていくのではと思ったからです。
 
でも、亡くなる前に会った時、
『沖縄にフラを残すね』
と約束しましたし、
同じ流派の先輩が、
『これからはアンクル・ジョージの代わりに
僕が君をヘルプするから』
と言ってくれて。
やっぱり続けて行かなきゃいけないんだって
改めて使命感を感じました。」 
 

 
生徒が「フラだけでなくハワイを学べる」と言ったように、
フラからハワイ語も学ぶ。
 
「普段使わない言葉ですから、きちんと勉強しないと覚えられません。
踊りを教える時に、ハワイ語の意味と軽い文法を説明しながら教えます。
ノートに書いて・・・というお勉強の時間もちゃんとあるんですよ。
ウクレレもみんな弾けますよ、
コードも全部書いて教えています。
フラを踊るにはオールマイティーじゃないとダメなんです。」
 
沖縄で育ちながら、ハワイアンに囲まれて育った先生。
沖縄とハワイに相通ずるものはあるのだろうか?
 
「ありますね。
悪いところはルーズなところ、時間もね。
それから、笑って済ませちゃうころ(笑)。
 
良いところは、お互いを愛し合う『ゆいまーる』の精神。
そして、集まってみんなで食べる事が好きなところ。
 
ジョージは、私がハラウ(教室)をやることになった時、
うちの台所にあった鍋を見て
『こんなんじゃ何もできないから、
大きい鍋を買って来ーい!』
って言うんです。
だから大きな寸胴を買って。
そしたら、彼がシチューを作りながら
『美味しいものがないとハラウに生徒が集まらないよ。
みんなで一緒に食べたら、心がオープンになるでしょう?
そうしたら、みんなフラも習いに来てくれるよ。』って。」
 

 
ハワイの大会で日本人のチームが入賞するという快挙を
何度も成し遂げて来たエコ先生だが、
遠い未来を見据え、目指している夢があるという。
 
「もしハワイの人がフラをなくしてしまっても、
沖縄に残っていればいいなって。
いつの間にか失ってしまったフラが沖縄に残っているんだ!
と知ったハワイの人が、沖縄にリサーチに来る(笑)。
『教えてください!あの踊りはハワイではもう見られないんですよ。』って。
 
例えば、沖縄語がブラジルに残っていたりするでしょう?
沖縄を離れて遠くに行った人が、
故郷を想って方言を使い続けるように、
間違えないように、曲げないように、フラを残していきたい。
 
エコという人が沖縄にいて、その人がフラを伝えていったんだよって。
そんな感じで残っていけば良いな。あと200年後ぐらいにね(笑)。」
 

写真・文 中井 雅代


Halau Hula Kalakaua(ハラウフラカラカウア)
沖縄市久保田3丁目1番12号 プラザハウス2F
 
HP http://halau-hula-kalakaua-okinawa.net
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