写真・文 田原あゆみ
不思議なニュアンスを感じるturtle forest のジュエリーたち。
以前から気になっていたこの有機的なジュエリーに出会った時のお話を。
少しだけ前のこと。
今年の10月に訪れたニューヨーク。
2014年はまだ終わっていないけれど、とにかく様々なことが起きたこの一年のあまりの濃さに圧倒されていた私は、とにかく歩いて歩いて、体の中の空気を入れ替えたいと願った。
今年体験した様々なことを一度ぽーんと手放して、頭を空っぽにして身体の感覚だけを感じてみたい。
そう思ってぐんぐん歩いたニューヨークという古くて新しい街。
100年ほど前の煉瓦造りの建物がまだたくさん残っていて、沖縄や日本とは全く景色が違う。
古い建物を生かした店づくりは個性的で、スターバックスでさえも1店舗ずつ雰囲気が違うのだ。
マンハッタンは地価が向上したため、大きな資本を持ったブランドや店舗が古いビルを生かしたショップを出していて、大都市にありがちな内容だったことはちょっとだけ残念だった。
その代わり、私が滞在したウイリアムズバーグという町には職人やアーティストが多く住んでいて、小さなグローセリーやショップがそれぞれ個性的で、そこで働く人々も生き生きとしてみえた。
職人たちがとてもかっこよくって、度胸がなくてカメラのレンズは向けられないけれど、チラ見を重ねて何度も心のシャッターを切ったほど。
古いマーケットの天井を見上げてシャッターを切る。本当はもっと人にもレンズを向けたかった。
この下には、イケメンの職人たちがうようよいたのだ。かっこつけの意気地なしの私を許してほしい。
秋のニューヨークを歩くために、沖縄を発つときに以前から欲しかったtrippenのBOMの黒いヌバックを買った。
去年から黒いブーツが欲しかったのだけれど、なかなか私まで回ってこなかったのでやっと履くことができて嬉しかった。
旅行中は歩き回るのが大好きな私。けれど私の足は幅が広くて、なかなか合う靴がない。沖縄では歩かないからいいものの、旅に出ると足のトラブルは旅の楽しさを削ぐ一番の要因。
trippenのcupのシリーズや、BOMの作りは足に合うことがわかっていたので、自分の足に体を乗せてぐんぐん歩くことができた。
セントラルパークでは、私に負けじと馬が急ぎ足・・・・
大都会のはずのニューヨークは、いたるところに緑があって、そこにはリスがいて、人々がゆったりと散策している。
そんな風景を確かに私は見ていた。
けれど、いろんなことに思考や心は飛んで行って、身体と心がちぐはぐになる時間が前半は多かった。
身体はここにいるけれど、思考が今を離れて過去の思い出や沖縄へと彷徨い出すのだ。
友人と今生での別れをした直後だったから仕方がないことだ、と自分に言い聞かせる。笑ったり、ふざけたり、テンションを上げることだけが旅を楽しむ全てではない。
きゅっと、胸が何かに掴まれているような切なさを感じながら、自分の感覚に素直に従っていたら、それはそれで豊かな体験になる。いつの日か。
寝食の時間以外、ただただ歩いた。
美味しくて、ヘルシーで、パワフルな食事もしたし、いいお店にも行ってみた。
ウイリアムズバーグのはずれにあるfive leavesというレストランの食事が気に入った私たちは、滞在中3回もここで食事を楽しんだ。
この料理は、スパイシーなモロッコ風オムレツ。香菜が効いていて、感覚が醒めるような朝ごはんだ。
この時のニューヨークでの思い出は、「今」という時間が何重にもなっていて、過去と、様々な場所と、ここにいる人々といない人々が混在する、まるで分厚い層を成すパイのようだ。
歩いて歩いて、ぽっかりと胸に開いた穴に風を通したせいか、後半は余裕もできて視界が広がった。
それまでは一緒に行った妹とコミュニケーションすること以外はしんどかったけれど、親しい人なら会えるくらいまで気持ちが回復していた。
それで、その旅の最後の夜に、ジュエリーの写真を見て会いたいと感じていたジュエリーアーティストと会うことになった。
沖縄出身の比嘉要(ヒガカナメ)さんは、沖縄らしい目鼻立ちのはっきりとした身体の大きな人だった。
彼の作品を知人から紹介された時に受けた印象は、有機的な繊細さ。
優雅で、詩的なジュエリーはまるで森の中のエアプランツや、地上からは見ることのできない植物の根が水分を含んで細やかに伸びているようにも見える。
海を漂う海月にも似ている。
ロマンティックなジュエリー、そう感じた。
ブランド名の「turtle forest」にも、何かストーリーのようなものが息づいている。
彼は小さな頃におばあちゃんの住んでいた渡名喜島で暮らしていたそうだ。
その島には私も行ったことがある。
砂地の道や、フクギの並木が未だに残っているその島の御嶽やその周りには懐かしい生き物たちが息づいていた。
山ヤドカリもその一つ。
神聖な場所の香炉の周りにごそごそと動き回る不思議な生き物。
親が海に産卵したあと、幼生の時期を海の中で過ごし、小さなヤドカリになって地上へ上がってくる。
成長に合わせて何度も貝殻を替えて、大きくなってゆく。
島にはこぶしよりも大きな山ヤドカリが、ゴソゴソといたるところに住んでいた。
私たちは綺麗だからといって、巻貝という彼らの住まいを浜から取って持って帰ってはいけないな。
本島での暮らしの中からは、40年前にあっという間に消えてしまった有機的で神秘的な自然と共生する暮らしの空気感。
特に夕方から夜にかけて肌で感じる島に生きる生命たちの気配。目には見えないけれど、島自体が生きているような息遣いが伝わってきたことをはっきりと覚えている。
だから彼の手がけるジュエリーたちには有機的な生命が感じられるのかもしれない。
要さんが描く絵はやはりとても細かい線で描かれている。印象的な絵だ。
お気に入りのボールペンを駆使して描く繊細な世界。純粋な集中のなせる技。そこには無私の時間が流れている。
その絵を何重にも折って無造作に革の手帳の中にしまっているので、そこには折り目がついていて縁には破れている部分もある。存続することよりも描くことに、何か意味があるのだろう。
要さんの手は大きくて確かに大人の指なのに、お釈迦様の像の手のように柔らかくしなっていて、大事にジュエリーたちに触れている。
最初はこんな大きな人が、この繊細なジュエリーを作っているギャップに驚いていたのだけれど、一緒に過ごすうちに小さなビーズ達をこの指先でつないでいるのがだんだんと見えてきた。
アートはその人の中にある美を表現するということだと私は考えているが、彼のジュエリーたちは、彼の内面に秘めた美への憧れそのものだと感じた。
彼の美意識で選んだ、天然石やフランスの1920年代のアンティークビーズを一粒通すたびに結んでいるせいだろう、関節のようにしなやかに揺れる。
ニューヨークのフラワーショップ兼ギャラリーに展示している時、ビョークが彼の作品を気に入って買って行ったのだという。私は彼女を直接は知らないけれど、なんだか納得。とても似合いそうだし、共鳴し合うものを感じる。
このジュエリーたちに触れている時に、久しぶりに身体と心が一緒にいる安らぎを感じていた。
roots と名付けられたこのネックレスたちを私はいくつか買い取った。
その日の終わり、眠りにつくときに私は一つ決心した。
こんな刻印されたように強烈なこの一年に起こったことを決して忘れたくはない、と。
その記憶を込める何か象徴的なものを持っていたい、そう思ったのだ。
要さんの作ったジュエリーたちの中から私が選んだのは、このネックレス。
感傷的で、けれど決然としていて、ロマンティックな輝き。
今までとはちょっと違う雰囲気を持つ、ちょっとドラマティックなこのネックレスを身につけて、この丘を越えた先、そこに広がる景色の中へと歩き出そう。
これは、私が今年自分に贈った贈り物の2番目のお話だ。
最初のお話はこちら。
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贈り物展
12月5日(金)~28日(日)
期間中火曜日定休
年末年始のお休み
12月29日(月)~1月2日(金)
暮らしを楽しむものと事
Shoka: